Cafe.自立援助ホーム 第一回の様子
鳥取大学名誉教授 田丸敏髙さん
初めにかんたんに自己紹介します。私は、1984年から鳥取大学で発達心理学や教育心理学を担当していました。1986年ころ最初の養育研究会を立ち上げたときに、メンバーの一人です。
2011年から福山市立大学の立ち上げに関わり、2017年から6年間学長職を務め、任期終了し再び鳥取に戻ってきたところです。
さて、今回のテーマの「自立」はとても奥が深く面白いテーマなので、コメンテーター的な立場を引き受けながら少し理念的な話をしてみたいと思います。
1.人間の自立の特殊性
まず、自立をどういうふうに考えるかですが、人の自立の特殊性は、これはいろいろな動物、たとえば蝶やカエルや、馬や牛と比べ、生まれてすぐに自立できないころにあります。人は自立するまでに10数年あるいは20数年かかる非常に特別な存在です。それは否定的な意味だけではなく、生まれてすぐに自分で食べ物を食べて自立できないために、他の人に依存しながら自立していくということで、社会性が発達する契機になっています。人間は社会的な存在であると言われるように、社会の中で暮らしていくという仕組みの中で自立していくという点に他の動物との違いがあって、際立っているということをまず押さえておきたいと思います。
だからこそ、社会があっての自立であって、初めから自立の決まりがあるわけではなくて、人が置かれた社会によって自立の様子は違ってきます。たとえば縄文時代の場合、自立のために読み書きの必要はなく、若い年齢で大人と同じように獲物を取ったり、木の実を採ったり、物を作ったりして暮らしていったのではないかと想像されます。
そういう意味では「青年期」の出現は、ごく近年の出来事であって、おそらく近代に入ってからでしょう。かつて人間の発達過程は、大人と子どもの区別だけで十分だったのですが、近代社会の必要から、子ども時代をさらに幼児期、児童期、思春期・青年期というように区分して、いろいろな教育を受けさせるようにしてきました。そして、成人してから社会の中で担う役割も多様になっていきました。大人になってから人それぞれに就くべき仕事も高度化し、その準備としての教育期間が長くなっていきました。そのなか長い期間をかけて自分で仕事や生き方を決めなければいけないというところが非常に現代的な特徴だと思います。
江戸時代を考えてみれば、農民は農民ですし、庄屋は庄屋ですし、武士は武士ですし、自分が所属する階級も生まれながら決まっていますから、悩むこともない、悩むこともできなかったわけです。結婚も家が決めていました。ところが、近代社会になってからは自分で仕事を選ばないといけなくなりました。とくに戦後は結婚する相手も自分で見つけなければいけない、これは非常に難しい課題があって、青年期の存在が大事になってきました。そういう人間社会の事情があることをはじめに押さえておきたいと思います。
2.青年期とは
近代に出現した青年期の特徴を見ていきたいと思います。青年期の特徴の一つは、子どもから大人への長い移行期の存在です。さきほど田村さんが50を過ぎたけど気分は10代だって言われていましたがその通りですね。私たちは、非常に長い青年期を引きずりながら生きていると考えます。
国によっては「一人前」モデルに違いが認められます。かつて日本では、男子の場合労働と兵役が義務でした。就職し家庭をもち、そして政治や軍事、たとえば徴兵制があってそこに参加して、「一人前」の姿が明確でした。女性には政治参加や選挙権もなく、家父長制のもと男女の役割も強制されていました。
ところが現代の日本では、多様な生き方が必要あって、仕事をするかしないか、家庭をもつかもたないか、政治に参加するかしないか、投票する権利があったとしても、しない人が大勢いるわけですから、しないこともできるわけで、兵役もなく、多様な生き方ができるという建前です。選択が難しい時代に生きていることになります。(もちろん自由や民主主義は努力と苦難によって達成したものであり、人間の新たな発達可能性を開くものであります。)
それから現代のもう一つの特徴は、何事につけてお金がかかるということです。遊ぶことをとっても野山を歩いているだけでは遊んだ気がしない。お金をかけてゲームをやって遊んだ気になるわけです。遊びは人間的な生活のために必須の活動であり、自由な時間を使って遊べるということも青年の条件です。その遊びにおいてもお金がかかるようになっていて、お金をあまり持たない青年は自立が難しいことになります。
また、青年が「一人前」の大人のモデルをどういうふうに描いていくのか、自分の親がモデルになるのか、あるいは施設職員の方がモデルになるのか、とても難しいだろうと思います。調査してみたら面白いと思いますね。かつて私は県内の児童養護施設の子どもたちに「施設職員の人はどんな仕事をしていますか」というインタヴュー調査したことがあります。小学生の子どもたちは面白い答えをしてくれました。女性の職員の人については、食事を作るとか洗濯をしているとか、叱ってくれるとか、具体的な仕事が数多く出てきましたけれど、男性の職員の人については、なかなか出てきません。考えたあげく、自転車のパンクを直してくれるとか、電話に出る(個人が持っている携帯電話のことではなく、職場に1つ2つある固定の黒電話のこと)とか、パチンコに行くとか・・・子どもから見ると仕事についての男性モデルが非常に曖昧で、なかなか男の子が育っていくのが難しいと感じたことがありました。(現代では、男性女性にかかわらず大人の役割や仕事について、多様なモデルを提供できることが求められていると言えます。)
3.自立の3要素
自立についていろいろな議論がありますが、大きく分けて生活的自立と心理的自立とその基礎に経済的自立があります。
3−1.生活的自立
3−1−1.生きるために必要な生活習慣や社会的スキル
児童福祉法45条に、「県は児童福祉施設の設備及び運営について条例で基準を定めなければならない。この場合において、その基準は、児童の身体的、精神的及び社会的な発達のために生活水準を確保するものでなければならない」とあります。この身体的、精神的及び社会的な発達のために必要な生活水準というのが、生活のそのものの法律の規定になっています。具体的に生きるために必要な生活習慣や社会的スキル、起床や就寝の時間管理、歯ブラシや着替え、洗濯など個々の技能、こういうものを最低限身につけておく必要があります。また、健康で文化的な最低限度の生活をするためのスキル、当然その読書をするとか、契約をするとかそういうことも入ってくると思います。
こういう社会的スキルは個々に習得する必要があります。結婚式や葬式のマナーからご挨拶の仕方まで、社会性に欠かせないスキルが数多くあります。
3−1−2.生活の自己管理
それから生活の自己管理ですが、これなかなか難しいというか、私は退職していろいろ気がつくことが多くありました。職に就いている間は出勤時間が決まっていました。大学勤務でしたが、だいたい9時ぐらいに到着していました。そのためには7時とか7時半に起きなければならないし、さらに睡眠時間を確保するために何時に寝なければならないということになるので、生活時間は外的に管理しやすいところがありました。家族生活を維持するためには何時になったら一緒に食事をするということに合わせて管理することになります。着るものも自由ではありましたが、学長になってからはスーツが基本で、式典では礼服にしていました。
ところが退職すると、何時に起きようが何時に寝ようがかまわないことになり、かえって意識的に自己管理しないと身が持たないことになります。健康で文化的な生活を送るための生活時間の自己管理は、いまの私自身の課題かなと思います。
3−1−3.学習と遊び
ちょうど先ほどお2人の話も出てきた「学習と遊び」ですが、これはもう生活の必須の部分で、後でもう1回触れますけれど生活は働いて寝るだけではなくて、そのなかに自分を成長させていくための学習が必要ですし、遊びもこれ必須です。とくに青年にとってはそういうことが生活の中に組み込まれていることが重要ではないかと思います。
3−2.経済的自立
3−2−1.就職し、収入を得る
それから経済的自立です。これは金額で表すことができるので、比較的わかりやすいとも言えますが、経済的自立のために人は就職して収入を得ることになります。収入があることは経済的自立のための条件です。したがって、ホームでもきっと就労を目指す、一人前の給料を得て生活できることになります。
3−2−2.権利の活用
しかし、人間は生きているといろいろなことに遭遇します。失業するときもあるし、怪我するときもあるし障害や疾病もあります。そのときには支援を受けられる制度が日本にはあるので、そういうことを利用できないといけない。が、これは結構わずらわしい書類申請があります。私自身退職してわかったのですが何枚も書類を書く必要があり、そのときには電話での問い合わせなど面倒なことがたくさんありました。退職するまでは練習するも機会もなく、いきなりやるわけですから、たいへんでした。若い人たちでは尚更だと思います。やはり彼らを助けてくれる人、支援する人が必要です。役所などあまり気軽に出かけるところではなかったでしょうから。
3−2−3.お金の管理
次に、お金の管理ですね。計画的にお金を使おうとしてもうまくいかないこともありますが、それでもある計画性を持って、住居費や衣料費、電気代や水道代、食費、医療費、交際費等々など、必要経費を想定して生活しなければなりません。もちろん、貯金も要ります。今月は少し余ったからといって、使い切ってしまうのは危険です。
3−3.心理的自立
それから次に心理的自立です。
3−3−1.依存と自立
これもいろいろ議論のあるところで先ほど依存と自立の関係について言及されていましたが、かつてはこの依存と自立が切り離されて、依存しなくても生きられるようなことが自立だと言われたこともありました。
人間は、親にかわいがられ世話をされて生きていくことができます。そのため生後すぐに発達するのは、自立する能力ではなく、依存する社会性です。子どもは、依存して認められ保護された経験があるあるからこそ、人間に対する信頼感が生まれます。そうした結びつきを愛着と呼ぶこともよくあります。
別の側面から、心理的自立について考えみたいと思います。人間の自立はたった一人で生きることでもないし、自分のためだけに生きることでもありません。人が人の役に立つということなのですね。人間の場合、動物と違って1人で何かできることじゃなくて、人の役に立つことによって、自立であるという現実です。私たちが収入を得ているのは、自立しているからではなく、人のために仕事をしているからです。みなさんの場合、施設の人のために仕事しているからですね。
この依存と自立の関係って非常に面白い問題でもっともっとこの施設に即して深めていく必要があるのではないかなと思います。
障害者の自立のことで、少々記憶が定かじゃない部分があるのですが、デンマークの障害者はその障害が重い場合支援アシスタントを4人雇うためのお金を受け取る権利があるそうです。24時間介護を受けることが必要な障害者は、4人を雇用することができる、雇用して給料を支払う立場に立つことになります。だから、自立できているわけですね。支援されて生きているわけではなく、4人の人に賃金を払い、その人たちを生活させていることになります。そういう仕組みが作られることによって、新しい自立の姿を考えていくことができるかもしれません。
3−3−2.社会参加と孤独
自立というのは社会参加で、何かに参加するということは孤独に耐える部分が必要であると考えます。言われたままに毎日過ごしているような生活だったら、参加しようかやめようかという選択がなければ、孤独になってあれこれ悩む必要はありません。どこに参加するか、何に参加するか、どういうふうに参加するか選ばなければいけないとしたら、何を選ぶかということは選択に至るまでいろいろな考え方を温めておくためには時間が必要です。つまり、すぐに決めてしまうのではなく、何かそこには孤独に耐える。
この孤独になる練習はどこしてきたかというと、たとえば私たちの世代では受験勉強です。一人でこもってラジオなど聞きながら勉強しているときは確かに孤独だったと思います。大学生になったときはやっぱり孤独というか、1人でだけで何時間過ごすのはざらにありました。でもそういうときに孤独ではあったけれども、別にその孤独感に押しつぶされたわけではありません。話が込み入ってしまいましたが、孤独と社会参加はセットであり、青年期の中で社会に参加する能力と孤独に耐える能力とを伸ばしてかなければいけない。
言い換えると意見が言えるということは秘密を持てることと裏表の関係にあります。いま言いたくないことは黙っている。言いたいことがまとまってくるまで検討している過程です。だからその秘密を持ってことも同時に大切にしてあげるのは、当然施設でも必要です。
子どもの意見表明すなわち秘密の保持について、施設職員のみなさんこそ研究することが求められている問題だと思います。みなさんは施設の実践の中で、子どもの発言を促すのかいまは待つのか、それぞれの経験に基づいてある意味勘所でやっていると思います。そうした実践を交流し、理論化していくことが求められています。
子どもが何か言いたそうにしているとき、待ってあげるのか言うきっかけを作った方がいいのか。言わないと苦しくてたまらないのに誰も何も聞いてくれないから言えないことがあります。言ってごらんと励まされて言うことができたという体験も必要ですし、そこはもうちょっと待っているから自分で考えてみてごらんと待ってもらうことで、言いたいことがまとまったという経験も大事です。そこは本当に具体的なところになってくるので、施設で仕事をしているみなさんが、研究していく必要があると思います。
3−3−3.主権者として発達すること
それからもう一つ主権者として発達するということです。主権者というと、始めに選挙で投票することが浮かんできます。議員選挙などがあると、大勢の候補者のポスターみたり、配布されている政策文書を読んだりしながら、この人がいいかなと考えて投票に足を運ぶことは一つの政治参加です。ただそこに留まらず、正しいと思ったことあるいは間違っていると思ったことについて、自分の意見として主張できること、そしてそれが周りの人たちから認められることは、とても大事な体験だと思います。言うことと聞くことはセットです。あるときは聞く側に立って、相手の意見を聞き、その人の意見は意見として尊重する。あるときは言う側に立って、自分の意見と述べて、その意見を尊重される。その積み重ねが必要です。尊重されるというのは鵜呑みにされる、賛同されるということではありません。それは、相互に主権者として認め合う体験であり、相互にものの見方、意見をもっていることを理解し合うことです。何が理に適っているか、何が子どもの最善の利益か、それぞれの見方を付き合わせながらより深い認識を見出していく過程です。ただ正誤や勝ち負けの二者択一ではありません。いまアドボカシーについての実践が進んでいますが、これまでの意見表明に関する研究など踏まえながら、子どもと大人の関係のあり方について探っていく課題であると思います。
4.青年期の遊びと学習
4−1.遊びについて
あと2つだけ話します。1つは遊びです。子どもの遊ぶ権利宣言は、1977年に出され、1979年子どもの権利の行動計画が始まり、1989年に国連で子どもの権利条約が決定されます。権利条約として結実するが過程で「子どもの遊ぶ権利宣言」や「子どもの学ぶ権利宣言」が出てきます。ここに書いてあるように、「遊びは、栄養や健康や住まいや教育などが子どもの生活に欠かせないものであると同じように、子どもが生まれも流れに持っている能力の伸ばすのに欠かせないものです。」
それから「遊びは、友達との間でそれぞれの考えや、やりたいことを出し合い、自分を表現します。遊ぶことで満ち足りた気分と何かをやったという達成感が味わえます。」「遊びは本能的なものであり、強いられてするものではなく、ひとりでに湧き出てくるものです。」「遊びは、子どもの体や心や感情や社会性を発達させます。」「遊びは子どもが生きるために必要な様々な能力を身にさせるために不可欠なものであって、時間を浪費することはありません。」
遊びを子どもの生活ある発達上で必須のものとして位置づけられていますね。ただここで気をつければいけないのは、生まれながらに思っていると言うものの、遊ぶ能力は育てないと伸びないという点です。言語能力は人間に固有な生得的な能力ですが、言語活動や言語経験によって伸びていくということと同様です。生まれながら持っているけれどもこれは育てないと伸びないのですね。だから、遊ぶ能力も、ほっといたら伸びないので、楽しい遊びをいっぱい体験することが必要です。
また、幼児や小学生の遊びと青年期の遊びとでは違いがあります。だから、青年らしい遊びの取り組みや経験が求められていると思います。先ほど田村さんが紹介してくれたキャンプなど青年期の遊びの一つの形態で、みなさんの世代が知ってる、子どもの遊びですね。スマホ使って架空の世界に行くような遊びについて、私たちはいまの子どもほどわかっていないかもしれません。子どもと向き合う中で、お互いわかり合っていくことが一つの課題で、だから子どもと遊ぶことは決して仕事外のことではなくて、まさに仕事なのですね。
4−2.学習について
もう一つは学習権です。学習の権利宣言は、読み書きが特権階級に独占され子ども全体には未達成の国も念頭に置きながら、出されています。
しかし、「問い続け、深く考える権利」というのは、いまの日本でこそもとめられているのではないでしょうか。すぐに解答を求められることの連続で、たかだか3日間ほどでも考える続ける余裕もないのが、日本の現状ではありませんか。青年はもちろん私たち成人においても「問い続け、深く考える権利」は重要で、この養育研のカフェなどの機会を作り育てていくことが求められています。
とかく効率やコスパが要求される社会で、児童福祉の職場、職員間で学習の機会を実現したいですね。先ほどのように内藤さんや田村さんが発表すると、みなさんから問いかけやが起こります。そうした問いかけに押されて、内藤さんや田村さんにおいて自ら問い続け深く考える権利が行使されるのではありませんか。さらに深く考え、どうしたらいいかが追求されていきました。そこからさらに想像し創造する権利、自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利の行使に繋げてきていきたいものです。権利は、自分だけが得するものではなく、個人的、集団的な力量を発達させるもので、みんなでどんどん伸ばしてくようなことが学習権です。
1985年に出された学習権宣言などについても学びながら、学習権の意義を汲み取り、活きたいものです。学習会や研究会において私でも役に立てることがあれば、関わらせていただきたいと思っています。
ご清聴、どうもありがとうございました。
ページ: 1 2